史実とフィクションを交えて語られる不世出の画家伊藤若冲の物語。
自分としては、なんだか違和感を感じる小説だった。
基本的には人間は集団で生きる生き物であり、そこにはいわゆる常識や慣習、人々との繋がりというものがあり、そしてそういったものを大事にして生きた方が生きやすい。また事実大多数の人がそういった世間を受け入れ生きている。
しかし若冲は違う。
商家の長男として家業を継ぐことが当然とされる時代に生まれながらも、それに逆らい家業を継ぐこともせず、後ろ指を刺されながらも、それを意に解することなく、ひたすら絵に没頭する。
なぜ世間に目を背け、ひたすらに画業に没頭したのか?この小説の作者は、その根源的な意味をもっと深く理解する必要があるのではないだろうか。
若冲はなぜあれほど絵に没頭したのか?俗世を捨て、世間に白い目で見られることも厭わずに筆を振るい続けたのか?
結局、この小説では、架空の人物、若冲の嫁として登場するお三輪の自殺に、終生苦悩する若冲が、その苦悩を昇華させる対象として、絵に没頭する、という意味付けがなされている。
私は、それは絶対に違うと思う。
むしろ、そう言った陳腐な意味付けは、若冲のその芸術の真髄を貶めることにすらつながるとさえ思う。
俗世で誰かを失ったからとか、誰かを愛したから、とかそういう、人と人との関わり合いからあの絵画は生まれたのではないと私は思う。
愛し合うことの素晴らしさを芸術に昇華させた画家も多くいるが、少なくとも若冲の芸術はそういった俗世との、人間との関わり合いから、安易に生まれたものでは絶対にない気がしてならない。
大事にしていた誰かを失ったから、絵を描く?それ自体は否定しないが、そんなものとは別の次元に若冲の芸術の根幹はあるのではないだろうか。
若冲にとって、絵を描くのにとってつけたような陳腐な理由はいらなかったであろう。
だからこそ現に歴史的な事実として、若冲は結婚もしていないし、そもそも事実として嫁の自殺などありえない。ただひたすら没頭した。そこに理由などない。
若冲のような極密で人智を超えたような絵を生み出すのに、身近な人の死などと言った、人間臭い理由をとってつけなければ理解や説明が出来ない、と仮に作者が考えているのであれば、まずそもそも芸術というもののなせる、1人の人間の生を捧げた営みの崇高さを理解していない、といえるのではないだろうか。理解していない事自体は個人の勝手なので別にそれはそれだが、取り上げられた芸術家は無念ではなかろうか。
芸術の営みの崇高さを、陳腐な人間ドラマに堕してしまっては元も子もない。
抗いがたい自身の背負った、絵を描くという宿命に突き動かされて、ただただひたすら描いたのだと私は思う。
業、あるいは自身に課された使命、その使命感に駆られて芸術家は筆をとる。その使命感がどこからくるのかは、画家自身にも、誰にも分からない。そうするしかないから、そうするだけだ。
それは神に祈ることにも似ているだろう。
描くことは祈ること。どこかで聞いたフレーズで気恥ずかしいが、結局はそうなのだろう。だからこそ、気の遠くなるような過剰ともいえる極密さで、尋常ではない絵画空間を現出させることに、ひたすら没頭するのだ。周りも顧みずに。
尽きることのない、絶え間ない祈り。俗世を超えた、自身の生命に課された使命としてひたすら極密な絵を現出させる事に腐心する。
ではなぜそこまでするのか。
それは他の誰にも出来ないから。
自分自身にしか出来ない表現があるから。
芸術家自身には必ずしもその自負があるとは限らないが、生み出されたものは画家自身が生きている世代や、また場所すらを超えて、人々に多くの影響を与える事が出来る。
地球上、歴史上、他の誰にも出来ない事、その計り知れない価値の重みを想像すると私は身震いする。
俗世や1人の人間の人生を超えた崇高さがそこにはある。
その崇高さに奉仕することが尊いからこそ、俗世を超えた何ものかに突き動かされて、自己すらも超えて、業ともいえるような、無心さでひたすら取り組み続けなければならないのだろうと私は思う。
またそれゆえに、芸術に彩られた、取り憑かれたものの人生は時に暴力的なほど、残酷な結末をたどる。
芸術至上主義者ではないと思うけど、仮に人間ドラマに基づいた芸術の物語があっても全くそれはそれで素晴らしいと思う。
しかしこの小説に限っては、違和感を覚える事を禁じえない。
若冲が自身の生涯をかけて自らの芸術を追い求め続ける、その取り組みの姿勢の根幹に据えられたものが、とってつけた人間ドラマになってしまっている事が、あまりにも若冲の芸術を貶めてしまっているように感じられて残念でならない。
そして、あえて史実を曲げてまで、妻の死という安っぽい理屈をつけてしまったところに、作者の芸術への理解の浅はかさを感じてしまう。
また小説に登場する、池大雅や与謝蕪村などの大家たちも、安易に人間臭いキャラクターで描かれている。彼らもまた俗世を離れて生きた人々であり、安易な人間ドラマからは遠い人々であったはずである。
小説の感触としては、安っぽい昼のドラマ。
その登場人物を、歴史的な画家に変えただけの三流芝居。
残念ながら、そこには芸術の崇高さはない。
さらに最悪なことに、取り上げられた芸術家はことごとく俗世のしがらみを超えた人々であった。なんという皮肉であろうか。
職場などでも見られるが、人間関係でしか物事を見られない人がいる。余計なお世話だと言われるだけだが、私から見れば彼らは哀れだ。しかし作者にもそう言ったものを感じる。
なぜ若冲を取り上げたのか、そこには抜き差しならない時流を無視できない出版社の商売の理由があったのかも知れない。しかし、類稀なる芸術家を題材に取り上げておきながら、そこに芸術の崇高さがなく、果ては安易な人間ドラマにしてしまうならそれはあまりにも下衆であろう。
若冲という芸術家、絵師を取り上げるならばもう少し、芸術というものの崇高さに寄り添う必要があったのではないだろうか。
流行りに乗じて、その物事の根幹を置き去りにしたまま、陳腐な駄作が生まれる事は有史以来のお約束なので、大した憤りも感慨もないが、やはり残念ではある。
これもまた人間の業が生み出す現象の一つのなのだろう。