芸術は偉いのか
今更ですが、あいちトリエンナーレの表現の不自由展の問題について、色々と考えました。
有名人が何か多くの人を傷つけるようなことを発言すると不謹慎だと批判される。それはよくある光景でべつに疑問ももたない。
一方で、あいちトリエンナーレの表現の不自由展も不謹慎だと批判されたにもかかわらず、芸術だ、表現の自由だ、ということで擁護しようとする人がいる。
それなら有名人の不謹慎発言も表現の自由で守るべきじゃないのか。
不謹慎だからだめ、でも芸術だったらあり、なのか。
芸術ってそんな偉いのか。
それはさておき、いずれにせよ結局、それが芸術か否か、表現の自由か否かというのは人によって千差万別で、それこそ各人の表現の自由なんだから、そこを問題点にしても答えは出ない。
ただ表現の不自由展の作品は、過激なもので人を傷つける可能性が高いものであることは確かだった。それを表現の自由とする人がいても当然いい。個人的には不快だし、なにより芸術としては下品で好きじゃないけど、それでもそういう芸術があったっていい。作り手だって批判される事も含めて、何か意図や思いがあって作った作品のはずだ。
本当の意味で、もっとも批判されるべきは、「表現の自由」や「芸術」をもてあそび、利用している人間たちではないのか。津田大介氏と大村知事の二人は特に責任が重いのではないのだろうか。
「芸術」をもてあそんでいるのは誰か
あいちトリエンナーレの表現の不自由展における津田氏の意図ははっきりしているように思える。それはプロパガンダに芸術の皮を被せて「出してみる」というもの。
津田氏は左翼的な思想の持ち主であることはよく知られているが、自らのイデオロギーに則した作品を、プロパガンダの意図をもって「表現の不自由」というテーマでカモフラージュして展示した。以下の動画をみるとそうした意図がはっきりと確認できる。
かなり軽いノリだった事が推測される。ここまで騒ぎになるとは予想していなかったのだろう。展示が批判されることが分かっていたから、展示内容については事前に関係者に完全な形で伝えていなかったと言う。そうした民主的な手続きを意図的にやらずに開催にこぎつけてしまったようだ。
芸術監督という立場を利用し、芸術の名の下にプロパガンダを軽いノリで行う。
しかも多くの人の尊厳を傷つけるものでもあることをあらかじめ分かっていながら。
100%予測は不可能だとは思うが抗議の対策も十分ではなかったようで、批判や脅迫を受けて急遽、作家や関係者の意見も聞かぬまま展示を中止し、自主規制した。作家からはこうした津田氏らの対応に対して抗議の声が上がっていたと言う。
こうした津田氏の態度こそ批判されるべきなのではないのだろうか。
少なくとも芸術や表現の自由を真剣に考えている人物の行動とはあまり思えない。そもそも表現の自由とかの問題ではなくて、イデオロギーに囚われた、表現の自由について、軽いノリで、真剣に考えてない人物が引き起こしてしまった騒動なのではないか。
また大村知事も表現の自由のことを真剣に考えているとは思えない。
実は「表現の不自由展」に対抗して、「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」というパロディのような展覧会が行われたという。イデオロギー的に「表現の不自由展」と真反対のものだったそうだが、大村知事はこの展覧会をヘイトだと批判している。
こうした大村知事の態度に対してダブルスタンダードだと批判が集まったという。「表現の自由」を大きく掲げているが、表現の自由なんてそもそも真剣に考えていないのではないか。公金にせびることが目的だ、という見方もある。少なくとも表現の自由などは真剣に考えてなどいないことは行動や言動から伝わる。
「芸術」を貶めているのは誰なんだろうか。
「表現の自由」を辱めているのは誰なんだろうか。
「表現の自由」を叫ぶ人々
そんな中で、芸術や表現に関わる人たちの中には真剣に「表現の自由」の問題として考えている人もいると言う。
雑誌・美術手帖でも表現の自由をテーマに特集が組まれていた。
・あいちトリエンナーレに関する補助金を申請した愛知県に対して、文化庁からは補助金の不交付が決定された。
・名古屋市は負担金の留保分を支払わない事を表明した。
こうした補助金の不交付が検閲?なのかとか不適切なのかどうかは、法律など関係してくるので素人判断は難しい。文化庁の報道発表などを見ると、展示の内容により補助金の不交付が決定されたのではない、と言うことは理解できる。
相手に一方的に「芸術」を押し付ける行為が果たして「表現の自由」を守ることなのか
表現の不自由展の作品は、そもそも過去に展示中止になった物ばかりだと言う。理由は不謹慎だとか不快だとか。天皇制や慰安婦問題など全力で左翼的な内容なのだから、そもそもそれに対立する意見を持つ人々が大勢いることは想像がつく。
大抵のことは、みんな仲良くやれる。でも大きく意見が分かれ人々が対立してしまう問題もある。
運営者としてはデリケートな問題として配慮すべきだった、ということは言える。なぜこんな対立を煽るような展示をしてしまったのだろう。
政治的なイデオロギーも絡んでくるので、いくら「芸術」を掲げたところで人の神経を逆撫してしまうのは必至だったし、それをあえて公共の場でやってしまうのは芸術の問題以前にデリカシーがないように思う。
一方から見れば不快にも感じるようなものを、相手に一方的に「芸術」だと言って押し付けるような行為が果たして「表現の自由」を守ることなのか。
みたくなければみなければいい、金を払いたくなければ払わなきゃいい、がこの展示は公的なものだからできない。
不快に思う人が大勢いることが主催者はわかっていながら、その相手の自由を奪っているとも言える。
「芸術」や「表現の自由」という大きなテーマを掲げればまかり通る、とも取れるような傲慢さも感じる。
政治とか歴史に関する一つの見方を示唆する性格を備えた作品を芸術だと言う自由もあるなら、そう思わない自由もある。
そうした相手の自由は認めずに、一方的に「芸術」だから認めろと言う。
これでは逆に「表現の自由」を貶めているんじゃないか、という気すらする
もう少し対立する一方の気持ちも考えていれば良かったのではないのだろうか。
自らの正義やイデオロギーに取り憑かれると、気をつけないと同じ人間であるはずの対立相手を軽視してしまう。
表現の不自由展の責任者は、自らのイデオロギーをデリカシーもなく曝け出す口実に「芸術」を利用した挙句、「表現の自由」と言うたいそうなもので取り繕った。しかし表現の自由は軽いノリで手に負えるようなものではなくて、結局矛盾してしまって、相手の「表現の自由」を奪っていることも分からなくなってしまったのではないだろうか。
表現の自由が大事なんて当たり前だし、それが脅かされるようなことは許してはいけない。
「表現の自由」は多分簡単なものじゃないし、イデオロギーとかちっぽけで下衆なものより遥かに重いもののはず。
「芸術」や「表現の自由」をむやみに利用して貶めないでほしい。