『見えざる手|Sell Art』について
私個人が趣味で集めた、お気に入りの一品の販売をしています。
美術品に限らず、見所あるものは何でもご紹介して、ご覧いただく皆様に楽しんでいただけるようにしていきたいと思っています。
まるで、フリーマーケットや骨董市をめぐる時のあの、見るだけでワクワクするような、そんなページを理想としています。
もちろん買って頂ければそれが一番ありがたいですが…
でも見て頂けるだけでも嬉しいです。
私自身が、品物を見たり扱う過程で、知識を深めたり、知らないことを知ったり、、、
ただ販売するだけではなく、過程を楽しんでいく。私自身にとってもライフワークとなるような、ながいスパンで取り組んでいく存在、それが当サイトと言えそうです。
私自身は、東京にて江戸時代から近代までの日本美術を専門に専門に扱う画廊に勤めています。
美術の世界は奥が深く、また広大です。興味は決して尽きることなく、一生かけて知りたいこと、見てみたいものがあります。
私自身は、美術品であれば彫刻が特に好きです。
見ているだけで、またはその美しい作品の姿を想像するだけで、なぜだか不思議と嬉しくなってしまいます。
その物体としての存在感、質感、美しい形、、、好きなものは決して飽きることがないですね。
そんな彫刻が作品として生命を持ち得ることができるかどうかの、生死を分ける基準の一つとして、「マッス/mass/量感」ということが言われます。
点が線になり、線が面になり、面が移動することで体積を持ち立体へと繋がっていきます。
その立体がただの物体ではなく、物体としての三次元の制約を超えた、<量/マッス>あるいは<存在>としてそこに現れるかどうか。
そこに作品としての生死を決める鍵があるといわれます。
彫刻に限ったことではないのかもしれませんが、その物体が物であることを超えて、私たちの心に何かを与えてくれる。
それはある種、そのモノの価値を超えた、かけがえのないものとなって、私たちの心を豊かにしてくれる。
私たちは、そんなかけがえのない一品に出会えることを、常に願っている。
そう私は思います。
そんな一品に、出会えるお手伝いができれば幸せです。
『見えざる手』の意味
「見えざる手」というのは経済学の有名なフレーズです。
私は経済学の考え方がとても好きです。世界で標準とされている、グレゴリーマンキューという経済学者のテキストを、独学ですが勉強しました。
近代経済学の父と言われるアダム・スミスはこう言いました。
人間はほとんどいつでも他の人々からの助力を必要としているが、他の人々の利己心だけを頼りにしても無駄なことである。彼らの自己愛を自分に好都合な方向に惹きつけたり、自分がしてほしいとおりにすることが彼らにとっても得になるのだということを示したりすることができれば、思い通りのことを実現できる可能性は高まるだろう。
我々の夕食は、肉屋や酒屋、パン屋の利他心に依存しているのではなく、彼ら自身の利己心の尊重に依存しているのである。
どの個人も・・・公共の利益を促進しようと意図してはいないし、自分たちがそれをどれだけ高めているのかも知らない・・・
誰もが自分の利得のみを考えているのであり、そうすることで、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意図していない目的を促進しているのである。公共の利益が利己心に突き動かされることで、本当に意図した場合よりも効果的に公共利益を促進できることが多いのである。
(…身も蓋もないですよね。世の中のモラルに反した、しばしば挑戦的な結論を経済学は突きつけることが多く、またその事がしばしば人々の反発を引き起こしてきました。
他にも色々あります、「家賃を一律で低く設定します」と善意の為政者が人々のための政策を行ったとします。しかしその結果は思惑とは逆になんと人々を不幸に陥れます…。経済学の基本、需要供給のメカニズムで分析すると必ずそうなるのです。善意で人々を不幸に…めちゃくちゃ皮肉ですよね。その挑戦的な問題提起の仕方はもはや経済学の伝統芸、みたいな表現も目にしたことがあります笑。しかし、人々の振る舞いを、虚飾を取り去り、限りなく客観的に描写した結果が経済学の数々の知見であり、たとえ反感を買うようなことがあれど、その知見自体は好悪や善悪を超えていると思います。それを受け入れた上でどうするか、というのがとても大事なことではないでしょうか。)
このあまりにも有名な「神の見えざる手」の一番のポイントは、『自分の幸せを自分勝手に追求した結果、みんなも幸せになる!』という事です。
当店の目的は、利益を自分のために最大化することですが、なおかつその結果が誰かを幸せにする事になればそれほど嬉しい事はありません。それはとても素敵な事だと思います。