建畠覚造 ブロンズ像 抽象彫刻(bz-001)
建畠覚造 ブロンズ像 『天使』
建畠覚造 刻銘
建畠覚造について
日本の彫刻界における抽象表現のパイオニア
建畠覚造は1919年、東京生まれ。
戦後の日本で、もっとも早い時期から抽象彫刻に取り組みはじめた彫刻家です。
日本彫刻史における抽象化の先駆け、パイオニアと言える存在です。
建畠覚造が抽象彫刻を志始めた1950年頃、当時の日本ではまだ受け入れられる素地すらなかった中で、独自の抽象表現を深めていった事には多くの困難が伴ったことが伺えます。
1950年ということは、まだ敗戦からわずか5、6年。戦争の傷跡も少しずつ癒えてきていましたが、まだまだ社会の状況は険しく、ほとんどの日本人と同様に、建畠覚造の生活も困難な状況が続いていたそうです。
建畠覚造は著書の中で、当時の状況についてこう述べています。
『戦後次第に傾斜の度合いを深めていった私の抽象指向も、そんな状況の中での全く孤独な戦いの連続であり、極く僅かな仲間との共感を分かち合うのみで、前衛美術に向かっての手探りのアプローチは焦燥に満ちていた。その当時、私は日本の美術界の根強い保守層から異端者扱いを受け、または故意に無視されていたが、私の置かれたそのような環境は、一方で却って私の彫刻を新しい実験の場に誘い、変革を頑に拒否する古い美術体質に対する挑戦を勇気付けていた。』
緑地社『彫刻』建畠覚造著 P.118
既成概念に立ち向かい、強い意志で抽象という未開の分野へ挑戦を挑む作家の姿が浮かび上がります。
生涯にわたって、厳密で理論的な造形原理に基づいた、有機的な形態をもつ抽象作品を数多く手がけました。
代表的な作品は、セメントを用いた『貌』(1955)、『核』(1956)『ORGAN』(1962)。
鉄を用いた作品で高村光太郎賞を受賞した『壁体』(1967)。
アルミニウムとステンレスを用いた、東京都美術館の中庭に展示されている『さ傘(天の点滴をこの盃に)』(1973)。
木材やジュラルミンを用いた『CLOUD』シリーズ(1970年台後半から1980年代)などなど。
上記のように、建畠覚造が彫刻に用いた素材は多岐にわたります。常に研究を重ね、数年ごとに素材を変えながら新しい表現に挑戦し続けました。使われた主な素材は、ブロンズ、石膏、セメント、鉄、ステンレス、鉛、アルミ、プラスチック、木、合板、ポリエステル樹脂、などなど多種多様です。
同じく彫刻家である建畠大夢を父にもち、長男の建畠朔弥は同じ彫刻家で日本大学芸術学部美術学科教授、また次男の建畠晢は詩人・美術評論家で、国立国際美術館長を経て京都市立芸術大学学長でもあります。
1959年から多摩美術大学で彫刻を指導。中原悌二郎賞や高村光太郎賞、長野市野外彫刻賞、ヘンリー・ムーア大賞展特別賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。2005年には文化功労者として顕彰されました。

建畠覚造
WAVING FIGURE(1998年、島根県立美術館)
建畠覚造の造形原理
建畠覚造は彫刻に関する数多くの著述も残しています。
それらの文章からは、建畠覚造が明晰な理論家であったことが伺われます。残された作品は様々な有機的な形態を持っていますが、空間と量との関係について深く考え抜かれたひとつの結論が彼の作品と言えます。その複雑な形態は、必然性をともなった論理的帰結と言えるでしょう。
その造形原理とはどういったものだったのでしょうか?
彫刻の基礎となる造形、およびその理論について建畠覚造はいくつかの著述を残しています。
その著作には、建畠覚造を始め、舟越保武、佐藤忠良、井上武吉、植木茂らの著名な彫刻家が、彫刻をつくるということの実践面についてテーマごとに執筆した『彫刻をつくる』(美術出版社 1965年)や、また建畠覚造の評論や著述を編集しまとめた一冊『彫刻』(緑地社 1982)などが知られています。
それらの著作では『彫刻の基礎』と題して、空間における最小限の単位である点から、線、面、量、虚の空間へと、造形理論を展開していきます。
彼の造形の根底にある考え方に近づくための、わずかばかりの手がかりとして、その中からいくつか引用して見たいと思います。建畠覚造の文章は明晰で大変面白いのでそのまま引用します。
(量/マッスについて)
彫刻に採用された量を、我々はマッスと言っている。つまりマッスは彫刻という方法によって整理された量であると言ってもよい。
『彫刻』建畠覚造著 緑地社 P.22
(球について)
球とは表面積が最小で、その体積が最大な量の状態を言うが、言い換えれば球とは最大の体積を最小の面で包んだ最も完全な量であると言うことができる。
略
我々はすべての量が空間に放置されると球体に近い形をとることを知っている。それは例えば、空中に浮遊する水滴から天体にいたるまで…。つまり空間に独立した立体の最も安定した形態は球であるということが出来る。したがって球は、重力から独立した状態において最も完全な形をとることが出来るが、逆説的に言えば、重力に順応しようとするすべての物体は、地表になじもうとする事によって、地球の球化作用を助けているということが出来るのである。
『彫刻』建畠覚造著 緑地社 P.23
「重力に順応しようとするすべての物体が、地球になじもうとすることによって地球の球化作用を助けている」。
有機的なイメージを想起させる文章でとても刺激的です。
(虚の空間について)
旧来の彫刻家は概ね、充実した量をもとにしてその創作意欲を結集してきたが、この量という揺るがすことのできない安定性と不変の力に対する依存に疑惑が投げられると、逆にこの量を消滅しようという行為が生まれてくることになる。
例えば我々がもし彫刻の充実した量の中からその一部を抉り取ったとするt、そこにできた空間のネガティブな存在に、新しい一つの価値を見出すことができないだろうか。つまり、彫刻の量塊を実の空間とし、これに対して失われた量の部分を虚の空間とすると、この二つの関係でどちらが強いと言えるだろうか。おそらくこのネガティブな空間は、彫刻の量塊の力に匹敵し、あるいはそれを凌駕するほどの力を持っていることを我々は知ることが出来るに違いない。
『彫刻』建畠覚造著 緑地社 P.25
(具象と抽象について)
彫刻とは本来抽象的なものであるはずである。たとえそれが自然の形態を再現するものであるにせよ、その形態を金属や石焼に移し替える段階において、当然、自然からの抽出作業が行われ、省略や強調や変形がなされなければならないからである。それに対して抽象彫刻はある意味において具象である、という逆説も成立する。つまり何の対象もない三次元の場に具体的な形を象すということは、とりもなおさず具象することであり、彫刻はすべて具象する作業であるということもできる。
『彫刻』建畠覚造著 緑地社 P.36
これらの文章からは、とても挑戦的で、面白い発想の持ち主だということが伺えます。
形態、素材にこだわり、またそれでいて、時にはすべてを裏切るような、意表をつく展開を見せる建畠覚造の彫刻。その根底には、空間に対する徹底した理論的な裏づけがあることがわかります。
建畠覚造・略歴
1919年4月22日 東京で生まれる。
1941年 東京美術学校を卒業。同年に文展で特選を受賞。
活動初期の1940年代には具象彫刻を手がけていた。
1940年代〜50年代にかけて
戦中からわずかずつ日本に入ってきたヘンリー・ムーアらの、既成概念を覆すような前衛的な彫刻に衝撃を受けたことによって、前衛的な抽象彫刻の制作に次第に移行。1950年 行動美術協会彫刻部を創立。
1953年から55年にかけて
数々の困難を乗り越えてフランスへの留学を達成。渡航制限がまだしかれており、そんな中での留学は大変な困難だったようです。
世界の抽象彫刻の胎動を肌で感じることを強く願っていた建畠覚造は、パリで彫刻家として生活をし、多くの作家と交流。パリ滞在中にサロン・ド・メ、サロン・ド・レアリテ・ヌーベル、サロン・ド・ジュヌスクールチュールなど多くの展覧会に出品を果たします。
1959年〜 多摩美術大学の彫刻科教授として赴任。
1966年 国立近代美術館賞
1983年 ヘンリー・ムーア大賞展特別賞を受賞
1990年 芸術選奨文部大臣賞
2005年 日本の彫刻界への貢献が高く評価され、文化功労賞を顕彰されます。
2006年2月16日 ますますの活躍を期待されながらも86歳で亡くなる。
本作品について
慈愛に満ちた天使の姿のブロンズ像。
どこか静謐な精神性をたたえています。
建畠覚造ならではの有機的な形の組み合わせが見られます。抽象表現ゆえの、視覚を超えた普遍的な愛や祈りが表現されているようです。
優しい雰囲気をもつ素敵な作品です。
飾ることで、空間の雰囲気を和らげてくれます。
オススメの一品です。
こちらは残念ながら、作品タイトル、制作年代などの詳細は不明です。高さ34cm、幅9cm、奥行き7.5cm。
※台座、正面から見て左後ろ上部角、3mmほどのカケがあり。
<参考資料>
- 『-新技法シリーズ- 彫刻をつくる』建畠覚造、舟越保武、佐藤忠良、井上武吉、植木茂 他(美術出版社 1965年)
- 『彫刻』建畠覚造 (緑地社 1982)
- 『美術年鑑 平成25年版』 (美術年鑑社 発行 2013年)